忍者 -Ninja-

文化

(本ページにはプロモーションが含まれています)

 漫画やアニメなどで取り上げられることの多い「忍者」。 その存在は “Ninja(ニンジャ)” として海外でも知られ世界を魅了しています。日本というイメージが強いキャラクターですが、日本人の私からしても、得体の知れないミステリアスな魅力があります。

 「忍者」という呼び名が定着したのは昭和30年代頃で、もともとは「忍び」など時代や地域によって数多くの呼び名があったそうです。起源は明確ではないものの、一説には飛鳥時代、聖徳太子に仕えて諜報活動を行い、「志能便(備)(しのび)」という称号を与えられた大伴細入(おおとものさびと/ 異名: ほそひと、さいにゅう)がルーツとも言われています。史料上では忍者の存在が確認できるのは南北朝時代以降のようです。

 忍者の役割の中で特に重要だったのが「生間(せいかん)」と呼ばれる任務でした。これは敵国に侵入して情報を収集し、生きて自国に戻りその情報を伝えるというもので、任務を全うするためには死を回避する必要があった為、目立たないよう隠れ、逃げる技が磨かれました。現代の忍者像とは違い、実在の忍者はできる限り戦いを避けていたのです。しかし戦国時代には、大名、領主に仕えたり雇われたりして、破壊工作や暗殺なども行っていました。全国各地に数多くの流派がありましたが、その中でもよく知られているのが伊賀(三重県伊賀地方)の忍者と、丘陵を挟んで伊賀と隣接している甲賀(滋賀県甲賀地方)の忍者です。

 伊賀流忍者は、鎌倉時代の「悪党」が起源だと言われています。悪党とは、鎌倉時代の末期、貴族や寺院などの荘園領主の支配に逆らった人々のことです。室町時代に入って寺社勢力が衰えると悪党もいなくなっていきましたが、その後は悪党の血をひく「地侍(じざむらい)」が活躍しました。地侍はもともと百姓で、大名などと主従関係を結び侍の身分となった者のことです。やがて地侍は「忍び」と呼ばれるようになります。午前中は農業に勤しみ、午後は寺に集まって訓練をするという生活を送り、山岳地帯の自然の中で身体を鍛えることで高い戦闘能力を身につけていきました。また、当時政治の中心だった京都から近かったため亡命してきた教養のある人材と交流を持つことも多く、様々な情報に精通することができたようです。除災戦勝を祈る有名な『九字護身法(くじごしんほう)』などの呪術や、火薬の原料が入手しやすい地域だったため火術も得意技でした。

 伊賀忍者といえば、「服部半蔵(はっとりはんぞう)」が有名ですが、これは特定の人物を指す名ではなく、一族が代々名乗っていた通称です。服部家は戦国時代には「千賀地(ちがち)」「百地(ももち)」「藤林(ふじばやし)」の三家に分かれた『上忍三家(じょうにんさんけ)』として伊賀忍者を統率しました。伊賀流では依頼を受けて戦闘する場合、雇い主とは金銭による契約のみでそれ以上の繋がりはもたなかったそうです。

 甲賀流忍者は、日本古来の山岳信仰をベースとした宗教、修験道(しゅげんどう)が起源と言われます。甲賀流では上忍三家のような有力者は存在しませんでした。対等な立場の人々で「惣(そう)」という独自の共同体を形成し、意思決定も話し合いや多数決で行っていたそうです。また、依頼を受けるのは特定の主君であったのも甲賀流の特徴です。甲賀地域には薬草が豊富に自生していたため医療や薬の知識に長け、薬を売り歩きながら諜報活動を行っていたとも言われています。

 江戸時代に入り泰平の世になると、忍者の活躍の場も徐々に減っていきましたが、当時流行した歌舞伎や浮世絵などでは忍者が好んで取り上げられ、黒装束や手裏剣といった現代の忍者像につながるイメージが形成されていきました。キリスト教布教のためにイエズス会が編纂した「日葡辞書」(日本語をポルトガル語で説明した辞書)が慶長8年に刊行されていますが、ここには忍者は「Xinobi」(シノビ)として、「戦争の際に、状況を探るために、夜、または、こっそりと隠れて城内へよじ上ったり陣営内に入ったりする間諜(かんちょう)」と記されているらしく、すでにこの時代には海外でも忍者の存在が認識されていたようです。

タイトルとURLをコピーしました