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「色の白きは七難隠す」ということわざがありますが、これは江戸時代に出版された美容指南書『都風俗化粧伝』(みやこふうぞくけわいでん)に記されている一節だそうです。これを書いたのは佐山半七丸(さやまはんしちまる)という人物で、一説には現在でいう美容研究家のような存在だったのでは、と言われています。“美人”の条件は時代や価値観などで変化していますが、江戸時代のトレンドは色白、キメの細かい肌に薄化粧だったそうです。
上・中・下三巻で構成された 『都風俗化粧伝』 は、浮世絵師・速水春暁斎(はやみしゅんぎょうさい)の挿絵入りでスキンケアやメイク術、ヘアスタイルや身のこなしに至るまで紹介されています。現代のファッション情報誌のようですが、同種のものの中でも特に記述内容のレベルが高く、長く女性たちのガイドブックとして活用されました。江戸時代後期、文化10(1813)年に京都・大坂・江戸の三都で販売されてから、その後1世紀以上に渡り読み続けられた超ロングセラーです。
身体の汚れを洗って落とすことは古代から行われていましたが、スキンケアという意識が広まったのが江戸時代と言われています。美肌効果のある洗顔料としてまず使われ始めたのは、米の精米時にとれる糠(ぬか)でした。木綿や絹で作った糠袋(ぬかぶくろ)に糠を入れ、お湯に浸したもので肌をこすります。糠袋は茜木綿(紅木綿)で作られることが多かった為、紅葉袋(もみじぶくろ)とも呼ばれました。当時はメイクに使われる白粉(おしろい)に鉛が含まれていることが多く、皮膚病を防ぐ為にもしっかりと化粧を落として、美白、美肌を保とうとしました。この為に効果的とされたのはウグイスの糞で、糠に加えて使用されることもあったそうです。他に、この時代の洗顔料では「洗い粉」も有名です。平安時代からあった澡豆(そうず)という豆の粉で作られた洗顔料に香料や生薬が加えられたもので、美白効果が期待されていました。
洗顔料だけでなく、化粧水が普及したのも江戸時代です。始めは白粉をきれいにつける為の化粧下地としての役割だったそうですが、江戸時代中期には肌を整える為のスキンケア用品として使われるようになりました。別名「美人水」とも呼ばれた「へちま水」は、高価な化粧水が買えない庶民に広く使われましたが、江戸城大奥の女中にも献上され愛用されていたそうです。
市販の化粧水にも有名なものがいくつかあり、林喜左衛門という医師が作った「花の露」はそのひとつですが、これは「都風俗化粧伝」に自作する方法も記載されていました。“蘭引き” という器具を用いてイバラの花のエキスを抽出して作られます。
そして、最も大ヒットしたのが「江戸の水」という化粧水です。戯作者、浮世絵師として知られ薬屋でもあった式亭三馬(しきていさんば)によって売り出されました。自著の『浮世風呂』にも登場させ、店の広告には「おしろいのよくのる薬」のキャッチコピーをつけるなど、効果的なプロモーションが行われていました。他の、「菊の露」などの人気商品と中身自体は大きく変わるものではなかったようですが、この時代にも宣伝による効果は大きいものだったようです。
